File #6 アップライト

 少し前の話になるが、団が結成された直後の95年末に起こった事件について語ろう。

 まだ学生だったK氏と大学生になったA氏は、信州大学に通っているN氏のもとを訪れ、スキーやスノーボードを楽しもうとしていた。今思えば、K氏とA氏が神戸を出発する時から不穏な空気は漂っていたと言わざるを得ない。青春18キップと呼ばれる乗り放題の切符で、8時間かけて信州まで行こうというのがそもそも若気の至りに近いのだが、その上大雪で列車本数が減らされた為、乗ろうとしていた列車は運休になり、替わりに乗った列車は事故の為途中までしか行かず、近江鉄道という前時代の車両に通勤ラッシュ並に詰め込まれ、長野に到着したのは予定を大幅に過ぎた約10時間30分後だった。
 厄災はこれだけではなかったが、両氏はN氏の話術を巧みにかわしつつ、不気味な色をした鍋らしき食物にも耐え、風呂場が凍るという悪条件にも負けずにウィンタースポーツを堪能していた。そして帰る前日も、名残惜しいように菅平でナイターまで滑り、帰路についたのは午後9時を十分に過ぎていた。
 菅平からは通常、国道406号を下り、144号に沿って上田まで走るのだが、事件が起きたのは真田町か上田市に入った辺りだと考えられる。それというのも、両氏には土地勘が無い為か、どの辺りで事件に遭遇したのか全く想像がつかなかった。

 N氏が運転する車は山間の道を過ぎ、市街地から比較的近い緩やかな右コーナーの下りに差しかかった。それまでの車内は、ここ数日と同じくN氏の話術が主導していたが、そのコーナーに入る前の数分間は会話がなかったとK氏は証言している。今から思えばN氏も危険を察知していたのかもしれない。
 助手席に座っていたK氏は、路面が不気味な鈍い光沢をしているのが気になっていたが、コーナーに進入した速度は30km/h程の安全速度だった上、スタッドレスタイヤを履いていることもあって、全くのくつろいだ姿勢をとっていた。一方のA氏は後部座席の中央に座り、いつも通り前席の会話を聞き落とすまいとしていた。
 コーナーも中程に差しかかった頃、N氏は短い言葉を発した。
 「あっ!」
 助手席のK氏が見ると、N氏はハンドルを操作しているが、車はそのままコーナーの外側に膨らんでいるではないか。みるみるガードレールが近付き、車は一度ガードレールと接触した。が、接触しても尚スピードが落ちず、操縦不能の状態も変わらない。車中の3人は成す術もなく、次の衝撃に備えてそれぞれの体勢をとった。ガードレールに跳ね返された車は、一度道路の左車線中央付近まで戻ったが、コーナーとは無関係に直進してじりじりと左に寄りつつあった。左側には、一度目に接触したガードレールと次にあるガードレールの隙間が見えていた。隙間に突入してしまう危険を一瞬感じたが、次の瞬間には、車は次のガードレールの終端部分、そう、あの折り返されて丸まった部分に焦点を定めていた。車は悪意を持ったように正面を終端部分に向け、躊躇無く突入した。そして激突―――。
 その瞬間A氏はスローモーションのようだったと言い、K氏は通常と同じように時間は流れていたと語る。だが、最も衝撃的だったのがN氏であった事は間違いない。過去の全ての事例がそれを物語っている。しかし、試練はこれだけではなかった。
 一度目に接触したガードレールの裏がすぐ民家であり、突っ込んでいたら大変な事になっていた。エンジンもかかるし、まだ助かったほうだという結論が3人の中でまとまりつつあった頃、通りがかった対向車が停止し、20代の男性が降りてきて大丈夫ですかと声を掛けてきた。その男性と少しの間会話し、とりあえず車を動かそうと言う事になって、N氏のみが乗り込んで坂の下まで車を動かそうとした。車は無事に動かす事ができていたが、ある程度下ったところで止まろうとした時、タイヤがロックするだけでブレーキが利かない事が判明した。神の悪戯か車の悪意か、車は正に「ズッズズッ…」という擬態語が当てはまるようにじりじりと前進し、今度の焦点はなんと、親切な男性の車へと向けられていた。
 後ろで見ていた3人の内、まず親切な男性が血相を変えて駆け出した。それもそのはず、彼の車はスカイラインGT-Rだったのだ。それに触発されるようにA氏も走り出そうとしたが、雪国になれていない彼は、蹴り出した第一歩目が後ろに滑り、前傾になった体を支える為に前に出した第二歩目が逆に前に滑り、見事な後ろ受身を披露する事になってしまった。一方のK氏はと言うと、この場で笑うのは不謹慎だと思いつつも、A氏のアメリカンコメディーばりのどたばたに笑いをこらえる事ができずにいた。この笑いに気圧されたのか、じりじりと前進していたN氏の車は、間一髪50cm手前で停止し、なんとか最悪の二次災害だけは避ける事ができたのだった。その現場には衝撃で四角くなったガードレールの終端部分が、しばらくの間残されていたという。

 N氏の自宅への帰り際、助手席のK氏は左のヘッドライトが暗くなっているのに気付いた。どうやらボンネットの中央部分が凹んでいる為、ライトが上を照らしているであろう事が予想できたが、切ない空気を察してそれを口にするのを憚っていた。しかし、N氏もそれには気付いたらしく、
 「えらい上照らしてるで。アップライトにしたら案内板がよう見えるわ。」
と空元気を出していたらしい。A氏とK氏はその空元気に調子を合わせ、ひたすらその切ない空気に耐えるより他無かった。道路案内に反射する青い光が切ない事件だった。