File #5 緊急停止

 車の話が続いてしまうが、A氏にも車にまつわる事件がある。
 過去にもA氏は、自家用車を事故で失った経緯を持っているが、今回も危うくその苦渋を味わう可能性があった事件であった。

 2000年、世間では俗にミレニアムと呼ばれていた年の7月、ちなみに2000年は正確に言えばミレニアムではないのだが、とにかく事件は突然A氏を襲った。前々からA氏は、車の動作が怪しいと感じていたが、その懸念が事実となって降りかかってきた格好である。
 当日、甲子園での阪神戦を観戦し、気分良く帰路についていたA氏は、神戸市街地を阪神高速に乗って順調に通過し、若宮の直角コーナーから月見山トンネル、そして須磨料金所へといつものように辿り着いた。料金所での渋滞もほとんどなく、いつものように料金を支払ってアクセルを踏み込み、車を加速させていった。速度計が60km/hから80km/h、そして90km/h近くまで加速させたところまでは、普段通りの、いつも通りのレスポンスが返ってきていた。
 「ガタ・・・」
 僅か一度だけ、微かに異音がした。それははっきりと、A氏は記憶している。つまりは気付いていた。しかし、まさかあのような事態が訪れているとは、流石のA氏も気付けないでいた。
 異音の数秒後、A氏はついに異常に気付く。
 どうも前方を行く車との距離が離れていく。ほぼ無意識にアクセルを踏み込む。しかし、その間は詰まることはなく、尚も離れて行こうとする。なぜだとA氏は自問するが、自らの頭の中には答えは見つからない。現状を確認しようと計器類を見た時、その謎は氷解した。タコメーターがまさしくゼロを指している。エンジンが停止しているのだ。
 現在の様々な機能が付いた乗用車において、その心臓であるエンジンが停止するということはどういうことか。そのことを、その解を、身を以ってA氏は証明することになる。
 まず、ほんの数十秒前まで片手で軽く捌けていたハンドルが重い。両手で回さなければ回らないぐらいに重い。とりあえず止まろうにも、今度はブレーキが利かない。遊びの部分までは踏み込めるが、それから先は重くてとても踏み込めない。目一杯踏み込む事によって、ブレーキは多少はかかっているのだろうが、それを実感できる程はかからない。
 しかし、苦闘している内に幸いにも、道路はトンネルで緩やかな下りとなり、徐々にではあるが速度は落ちてきていた。ここで少し冷静になったA氏は、しばらく先に垂水P.A.があるのを思いついた。
 「そこまで行けば何とかなる。」
 そう独りごちたA氏は、P.A.で止まるべく準備を始めた。フットブレーキは、とても止まれる程は踏み込めない為、サイドブレーキを使って速度を落とし、P.A.に着く頃には30km/hを上回るか下回るか、その程度にまで速度を落とした。速度が落ちれば当然ハンドルはより重くなるが、A氏はシートに体を踏ん張ってハンドルを回し、P.Aへと突入した。P.A.には幸運にも車は少なく、スペースは充分空いており、縁石に当ててでも何とか止まれると、A氏は咄嗟に感じた。
 そして、その瞬間―――
 A氏は決死の覚悟と共に、サイドブレーキを二、三度、それと車止めを使って、車は何とか停止した。生還したのである。

 車が停止した瞬間、A氏は思わず、
「無宗教なぼくやけど神様ありがとう。」
とつぶやいたというが定かではない。