File #11 so foldaway

 日常生活に潜む重大事故というのは、普段の何気ない行動の延長線上にある為、日常に埋没した当事者にとっては予想し難いものである。しかも、それが予想し得る危機を超えたものだった場合、より深刻な結果を招く事になる。
 ここに、このような状況を如実に表した事件がある。諸君らの参考として欲しい。

 この事件の被害者であるK氏は、通勤に電車を使っていたが、駅まではほとんど自転車を利用していた。K氏は大阪で1人暮らしをしていたことがあるが、その時も駅まで自転車を利用しており、学生時代から数えると10年以上も自転車に乗り続けていることなる。
 この事件の2年前にK氏が大阪から神戸に戻ってきた時、大阪で使用していた自転車を神戸まで乗って帰ってきたが、その自転車は事故の弁償で新しくなったばかりだった。しかし、戻ってまもなくその自転車は盗難に遭い、やがて近所に打ち捨てられていた自転車を修理して使うようになり、職場が神戸に変わってからもそれを使用し続けていた。この自転車は、打ち捨てられていた割によく働いたが、この事件の半年前、再び駅で盗難に遭ってしまい、K氏は仕方なく特価で買った折り畳み自転車へと乗り換えた。K氏にとって折り畳み自転車というのは初めてだったが、思ったよりも運転や取り扱いが楽で、値段の割に得な買い物だったと感じていた。

 事件の直前、これが重要な起因要素となるのだが、K氏は広島へ出掛けた時に、折り畳みという機能を存分に発揮させて持ち出していた。当然、自転車は折り畳まれた形で輸送され、現地で1度組まれて使用された後、再び折り畳まれて神戸に戻ってきていた。神戸に持ち帰った自転車を、K氏が通勤に備えて組み立てなおした時、折れ曲がる箇所を固定する締め金具が、数度の組み立てによって明らかに新品の時に比べて緩んできていたが、この金具は閂(カンヌキ)のように、折れ曲がって離れるフレームの双方に棒を通し、その棒をバネの圧力で抜けないように固定した後、テコの原理でガッチリ固定するという2段階の固定方法であったため、その2段階目の締め金具が緩んでいても大した問題ではないとK氏は認識していた。実際、過去に締め金具が外れていることを走行中に気付いたことがあったが、いつもに比べて多少ガタガタしているなという程度で、走行には問題なかったという。

 そして、事件当日。
 この日、K氏はいつもより早く自宅を出発し、折り畳み式の自転車で駅に向かおうとしていた。なぜいつもより早く出発したかというと、前々日にK氏は遅刻をしていたというのがその理由だ。連休明けだったその日は、出発前にJRが事故で乱れているとの報道があったので、K氏は車で出勤したのだが、高速道路も事故で渋滞するという二重苦によって遅刻に甘んじた。致し方ない理由とは言え、連休明けに遅刻するという極めて印象の悪い状態で、休みを挟んで2営業日連続の遅刻という社会人にあるまじき失態は許されるはずがなく、その気合が出発時間に表れていた。
 朝から雲ひとつない晴天の中、K氏は「こんな日はバイクに乗せろっちゅうねん」とひとりごちながら、若干気になっていた自転車の締め金具がなんとかはまっている事を念の為に確認し、自宅から勢い良くペダルをこぎだした。K氏の通勤経路には、まず自宅から30mほどのところに急な坂道がある。寝ぼけまなこには過酷な勾配ではあるが、この日もK氏は立ちこぎで体重をかけて坂道を乗り切ろうとしていた。しかし、坂も中腹に差し掛かったところで事件は起こった。

 事件発生直後、K氏は事態を把握することができずに、数秒の間、立ちつくしていた。突然視界が回転したかと思うと、次の瞬間には目前に地面が迫り、咄嗟に左手で体を支えつつ回転して回避行動をとろうとしたが、体勢が悪かったのか、体は思うに任せず体側面から地面に叩き付けられた。そして、条件反射的に次の瞬間には体を回転させて立ち上がっていたが、どのようにしてそのような事態に至ったかがまるで把握できなかった。
 その時、K氏の脳裏には数年前のスノーボードでの転倒が思い出された。あの時は、それまで見たことのないほどの巨大なジャンプ台に挑戦し、着地後に転倒して頭を強打したのだが、転倒直後、仰向けになって転倒した惰性のままアイスバーンを滑り降ろされている間、空高く広がる青空を見ながら「めっちゃええ天気や。俺は今何してるんやろ」という感想を抱いていた。転倒前後で記憶が断絶していたのだが、今回もなぜこのようになっているのかわからないという点で、その時と同種の心境であった。
 「まさか頭打ってへんやろな。」
 K氏は慌てて自らの頭を手で確認してみたが、幸い頭を打った形跡はない。だが、体を支えるために地面に擦り付けられた左腕には、無数の裂傷が刻み込まれ、それは肘の内側から手の平の土手にかけての1/3の範囲にまで及ぼうとしていた。「また派手にやったな。まぁアスファルトでコケたらバイクと一緒でそないなるわな」と妙に納得しながら、体のほかの箇所を確認してみたが、腕の裂傷以外は体に外傷はなさそうだった。
 K氏はこの時点で、自宅に引き返して腕を治療しようかと思ったが、次の瞬間にはそれをやっていては間違いなく遅刻であるという事を認識し、そのまま出勤することを決意した。確かにかなり痛々しい傷ではあるが、程度は浅い。若干膝を打撲したようだが、幸いにもスラックスが破れるということもなかったので、そのまま出勤しても耐えられそうであった。
 しかし、なぜこのような事態に至ったのか。そう考えながら自転車を起こそうとしたK氏は、心の中で「マジがい!」と絶叫した。なんとK氏の目の前には、ハンドルから前輪に繋がっているフレームが真っ二つに折れ、だらりと力なくハンドルを下に向けている自転車の姿があり、ほんの1分前に確認したはずの締め金具は開放状態になっていた。しかも、よく見てみると金具は破断したわけでもなく、ただ開放状態となっているのみであった。金具は前述した通り2段階で締めるようになっており、多少2段階目の締め付けが緩んでも、バネ式の1段階目までが外れるということは、通常では考えられないことであったが、どうやらK氏が信頼を置いていた2段階の固定方法は、皮肉にもK氏が全体重をかけてこいだことによって想定外の負荷を生じ、常識では考えられない悲劇を引き起こしたようだった。
 
 落ち着きを取り戻した後、K氏は過度の負荷がかからないように慎重に慎重を重ねて運転し、なんとか駅に辿り着いて駅のトイレで重度の裂傷を負った腕を洗浄した。そして、そのまま短時間で乾くはずのない腕を抱え、必要以上に気を使って腕が他の人に付かないようにしながら満員電車を切り抜け、どうやら社会人失格の烙印だけは免れることができたらしい。そして、事件後の1週間は会う人全てに腕が大変なことになっているがどうしたのかという質問を投げかけられ、その後も1ヵ月後の完治までは風呂や睡眠の体勢に大きな制約を受けつつ、締め金具を調整して同じ自転車に乗り続けたという後日談が伝わっている。